cover image
🍌

平和学の授業から(2)

2021年度前期の平和学のクラスでは、国際関係論の基礎を学びながら、普通の人たちの声を国際関係に反映させるためにはどうしたらいいのか、あるいは、現時点で、普通の人たちの声は国際関係にどの程度の影響力を持っているのかを考えようとしています。
 
内容が多くなってしまうため、(1)では軍事的な安全保障に関わる問題を、(2)では、経済や環境に関わる問題、平和学で言う「構造的暴力」に関わる問題を取りあげます。
 

 
(6月5日)
近代化論に関して、補足しておきます。
1970年代から80年代にかけて(「南北問題」を克服することが世界の人々の関心事になるにしたがって)、開発経済学という分野が生まれてきました。この開発経済学において、一世風靡したのが「近代化論」という考え方です。
これは、先進国が、産業革命を経て「近代化」路線を歩んできたことで栄えてきたように、途上国も、先進国と同じ路線を歩み、工業化を推し進めて近代化を図れば、先進国のようになれる、だから、途上国も「(先進国に)追いつき、追い越せ」("catch up theory"と言われたりします)という目標を掲げれば、「南北問題」はいずれ解消される、と考え、途上国にも工業化を強要したわけです。ただ、途上国には工業化する「技術」がない。だから、先進国からのODA(政府開発援助)によって、あるいは民間企業から技術を供与することによって、途上国も「近代化」の路線を進め、といわれました。
だけれども、これらにはいくつかの問題があります。
1)それぞれの国家に固有の問題があるのではないか?
先進国が存在するのは、比較的、「温帯」の、気候条件のいいところに集中しています。これに対して、途上国は、熱帯や亜熱帯地域など、あるいは寒冷地域など、わりと自然環境の厳しいところに位置しています。このような「ハンディ」をどのように考えるのでしょうか?
先進国と同じような「近代化」路線を歩むとして、先進国が産業革命以来、200年にわたって少しずつ技術開発を進めて経済発展してきた道を、途上国はわずか数年、あるいは十数年のうちに成果を出せ、というのはそもそも無理なのではないか。あるいは、「遅れた」地域は経済発展をして「追いつき、追い越せば」どこの国も豊かになれる、なんて、一本調子の路線を歩むことは「正しい」ことなのでしょうか。
2)途上国の政治状況はどうか。(「汚職」や「政治腐敗」)
あるいは、先進国からの「外資(外国資本)」を導入しようとする途上国の政権は、ひょっとしたら先進国の企業から「ワイロ」をもらっているのではないか(「汚職」や「政治腐敗」の問題)、あるいは、先進国で1970年代に問題となった「公害」を生み出す企業が、自国政府からの厳しい環境規制から逃れるために、あえて、途上国で「公害」を引き起こしても問題にならないと思ってやってくるのではないか?。
公害企業が先進国からやってきて、途上国でも同じように「公害」を引き起こした場合、住民の人達が企業に不平不満を言うと、政府はこれを弾圧しようとします。外国資本が自国から逃げていかないようにするためです。このため、外国資本に文句をいい、デモを引き起こす自国民を「弾圧」しようとします。(こうして生まれた政権のことを「開発独裁」といいます。)
3)先進国は、果たして途上国に技術を「供与」するでしょうか。知的所有権の問題は?
1972年のNIEO(新国際経済秩序)で、先進国は、途上国に対しても「市場開放」をして、途上国にが新規市場に参入しようとするときにハンディにならないようにならないように求めたり、途上国が市場に参入できるようにするために、先進国からの「技術供与」や技術支援を求めています。しかし、途上国に技術を供与することによって、先進国が不利になるようなことをあえて先進国やその企業はするでしょうか?知的所有権をたてに、かえってライセンス料を途上国から徴収しようとしたりするのではないでしょうか?
外国資本が途上国に参入したとしても、結局は安い労働力を求めてやってくるのであって、途上国の人たちをかえって「搾取」しようとしているのではないか、という問題もあります。
4)日本のODA(政府開発援助)は、他の先進国のODAと比べてどのような特徴がある(といわれていた)のか、調べてみてください。
私も今、短時間で思いつくままに書いたのですが、他にもまださまざまな問題があると思います。ちょっと考えてみてください。
 
(6月6日)
途上国がインフレすることによって金利上昇政策をとることは理解できたのですが、それによりドル建てでの借金が膨らむという理論がよく理解できませんでした。またその後の緊縮財政に関する説明も良く理解できなかったので、詳しく教えていただけると幸いです。
1)インフレを抑えるために金利を上昇させて、市中の通貨供給量を抑えてインフレを収束させる。(インフレ=市中の通貨供給量が増えて、通貨の価値が相対的に下がり、物価が上昇する。)
2)途上国の通貨の価値が下がる →ドル建ての借金が膨らむ
(例:1ドル=100円→1ドル=120円になる(通貨の価値を下げる(切り下げ))→同じ1ドルを返済するにしても、円で考えれば、100円で済んでいたところが120苑払わないと1ドルの借金が返済できない。)
3)借金が膨らんで、自国の通貨の信用が下がれば、それだけ、国際金融機関から借金するときの金利も上昇する(信用がなくなると、より高い金利を払わないとお金を貸してくれない)、すると、財政は切り詰めないといけない(緊縮財政を余儀なくされる)
 
(6月10日)
自由主義によって「構造的暴力」が起こるとするならば、途上国に対して先進国が計画経済体制を敷いてみれば先進国の管理によって途上国は安定するのではないだろうか。
冷戦の崩壊から自由主義、新自由主義の考え方へと社会が移行した結果が格差をさらに広げる南北問題だと考えていますが、それを「平和学においての平和」を考えた時に社会主義的、自由主義的どちらの経済体制を取るかの判断は難しいように感じました。
 以上の2人の意見に対して、私のコメントを書いておきます。
 1人めの意見は、すでに「南北問題」の授業を視聴した学生からも寄せられています。が、今回取り上げたのは、「計画経済」に対する評価に加えて、「先進国の管理によって」という点が気になったからです。
 社会主義中国でさえ、1990年代に入り、改革・開放路線を歩むことによって、経済体制としては自由主義経済を導入し、国営企業を民営化したことからも、「計画経済」が社会の変化、特に技術革新に対応できなかったことがわかると思います。(ただし、社会主義体制ですから、土地は国有で、資本は国家から注入されています)
 中国のハイテク産業の発展がめざましいのは、完全に「自由主義」である米国や日本は、企業の自助努力によって技術開発の資金を調達し、運用しなければならないのに対し、中国の場合は、国家が企業に資本投入する「決定」が中央から下されることにより、西側に対する優位を保つことが国家の優先目標とされるからでしょうね。日本も企業に対する補助や、大学と企業との連携による技術開発を推し進めるなどの諸政策が求められるのでしょう。
 「平和学においての平和」を考えたときの経済体制の選択としては、完全な自由主義に委ねると格差は拡大してしまうので、社会主義(この場合は共産主義と捉えたほうがいいかな)というよりは、社会民主主義的な政策を組み合わせることによって、社会的弱者に対する救済の方法をどうしていくのか、という考え方をしたほうがいいかな、と思います。
 岩波書店の雑誌『世界』2021年4月号に、「社会民主主義という選択肢」という特集があります。この他にも、この雑誌には参考になる記事が乗っていますので、図書館で見てください。
 
(6月13日)
授業のこれまでの流れを振り返っておきます。
リアリズムの話が1980年代まで進んだので(1970年代における「相互確証破壊」戦略の登場と1980年代における「核の冬」の議論)、
・「南北問題」という議論の登場(1960年代)
→NGOの役割という解説動画で「トランスナショナル」という概念について説明しています。
1950年代までの、米ソ核軍拡競争という、まさにネオリアリズム的な状況だったのが、1960年代に入って新興独立国家が登場し、「リベラリズム」という考え方を国際関係論に援用しようという議論が登場してきたことを取りあげました。
「国際関係論」におけるリベラリズムの議論は、以下の3つの動きを踏まえています。
1)多国籍企業のように、新興独立国家のGDP(国内総生産)を上回る経済規模を持った非国家的行為体が登場した
2)途上国(=新興独立国家でもある)は、植民地政策を取ってきた宗主国(=植民地支配を行ってきた国)のせいだと考えるイギリスやフランス国民たちが、最初は「罪滅ぼし」のつもりで「施し」を行う(「慈善」)団体として、NGO(非政府組織)を立ち上げたものの、構造的暴力を引き起こす社会構造は「公正」ではない(not justice)として、そうした社会構造そのものを問い直さなければ、結局は、いくら経済支援をしたところで、根本的な問題解決にはつながらない、気づき始めた
3)途上国は、国連を中心とした国際組織を味方につけて、大国(特に「西側」)に挑んでいきます。その一連の動きとして、UNCTAD(国連貿易開発会議)の設立や、国連資源特別総会におけるNIEO(新国際経済秩序)樹立宣言などが挙げられます。
国際関係論の議論としては
・1960年代には、「トランスナショナル」(脱国家・超国境)という概念を生み出した(古典的リベラリズム)
・1970年代に入ると、国家間の結びつき(貿易や通信技術の発達など)によって、「国際的相互依存」という状況を引き起こした →この動きは、「敏感性」「脆弱性」という2つの指標によって説明できる
ただし、
1)もともと、リベラリズムという議論は、国家と国家はパワー関係において「対等」という前提の上に成り立つ議論であったものの、実際には「国力」の差によって、実際には上下関係にあること
2)すると、立場の弱い国はより「脆弱」な状況に陥ってしまい、リベラリズムといっても、実際には「パワー(権力)」関係に陥ってしまうこと
が明らかにされました。
1970年代におけるオイルショックによって、日本はトイレットペーパー騒動を引き起こすのですが、それほどまでに、日本は資源がない=「脆弱」な国だ、ということを露呈してしまったわけです。今回のコロナ禍におけるマスク不足も、マスクの原材料となる不織布を中国に依存していたことによって「脆弱」であることが再び明らかになってしまったわけです。
*注1)実際にはトイレットペーパーとオイルショックとは何の関係もないのですが、「オイルショックが起きるとトイレットペーパーがなくなるかもね」というデマを日本社会全体が信じてしまったがゆえに大騒動になった
*注2)「脆弱性」のレベルを下げようとするなら、「代替案」を考えなければならないわけですが、そのためには、 ①自国の生産レベルを上げる(国力増強)もしくは ②外交をマルチなものにし、貿易相手を一拠点に集中させない、 などが考えられます。
・1975年には第1回先進国首脳会議がフランスのランブイエで開催され、国際協調という動きをどのように説明するか、という問題関心につながり、1980年代には、「国際レジーム論」(ネオ・リベラル・コンスティテューショナリズム)という議論が登場します。
 
・今年6月のG7サミットの評価はどうでしょうか? といったところが注目されるところですね。
 
(6月15日)
世界の貧困は無くなってきていると聞きましたが、格差は広がっていると聞きました。これは何故ですか?また格差が広がることによる弊害としてどんなものが考えられますか?
 
「自助」を強調する政府がいて、政府からの補助を期待するな、自己責任だ、といわれれば、チャンスをうまくモノにした人とそうでない人との間には自ずと格差が生まれ、その格差は、財政による所得再分配機能が働かなければどんどん広がっていきます。
金持ちだけを優遇していればそれはそれでいいのかもしれませんが、多くの人たちの消費が促されなければ、購買意欲はあっても直接消費に結びつかず、長期的に見れば経済的に衰退していくかもしれません。
最低限の生活レベルさえ維持できなくなれば、コミュニティが崩壊して秩序が悪化する→「警察」機能(政府の「警察」だけでなく民間の「警備会社」を金持ちは直接雇うかもしれません)が求められていく。
人の命がしだいに奪われていく、、、
といったように、段階的に社会はすさんでいくでしょう。
 
内発的発展論についてもあまり理解が出来なかったので詳しい説明をして欲しい。
 
Googleを検索すると、内発的発展論に関する論文がいくつかでてくるので、そのうちのいくつかの論文に目を通してもらうといいのですが、途上国が経済「発展」をしようとするとき、それは、往々にして「外発的」(他国からの経済援助などによって)にもたらされるのですが(この場合、"development" は「開発」と訳したほうがいいかもしれません)、先進国からの経済援助が打ち切りになってしまって、途上国の人々の生活レベルが再び悪化してしまっては意味もありません。先進国からは、いつまで経済援助を続ければいいのか?という疑問の声が上がってくるでしょう。
そこで、途上国の人たち自らが、自立的な経済「発展」を遂げるためにはどうしたらいいのか、という発想に立つわけです。例えば、伝統的な手工業を商業レベルにまで引き上げる、ただ、ちょっとした「元手」すらもないために、手工業をはじめられない、という人たちのために、直接、事業を始めたいと思っている人たち、特に農村部に暮らす人たちに対して、小口融資(マイクロ・ファイナンス)を行って、あと一歩のところを支援するとか、という方法を考えるわけです。竹細工をつくるとか、ちょっとしたところから事業をはじめようとする人たちを支援するわけです。それは、国家レベルのODA(政府開発援助)など、大規模開発とは異なる方法です。
マイクロ・ファイナンスの有名な例としては、「グラミン銀行」があります。ムハメド・ユヌスという経済学者が提唱したグラミン銀行はバングラデシュではじめられたのですが、2006年にノーベル平和賞を受賞しました。調べてみてください。
 
(6月20日)
国際レジームで協調して作られた原則や、規範、ルールはもしその定められているのに違反をしてしまった場合は何か罰せられたりするのですか? もし罰せられないものならこの定められたルールや規範などは絶対強制というわけではないのですか?
 
 
 
 今回の授業でもっとも印象に残った部分は最後のグレタさんの演説だった。個人単位で国際関係に影響を与えるなんて、前の時代では全く想像もできないが、今は次第に多くなってきた。しかし、このような個人単位のアクターについて、私は複数の疑問を持っている。  まず一つ目の問題は、個人単位のアクターはどんな影響を国家に与えるのか、それについて、私は先生がいっていた政治家にカメラを張るような仕組みと同じく、政治家のパワーを弱めると考える。しかし、政治家のパワーが弱まっていくことに抵抗もするだろう。その抵抗の手段としてメディア操作などが取り上げられる。  二つ目は、個人単位のアクターは国際関係に参加することで、世界をよくさせるのか。私はイエスと思う、パワーポイントで書いてあったカトヴィツェとグレタさんのように、環境のために演説をする人のように軍縮や貧困などのために奮闘している個人単位のアクターは多くいる。しかし、その一方で、国際関係に参加するハードルが下がったら、避けられないことに多くの専門知識の備えていない人と意見が全く違う専門家が参加してくる。そして、人数が多くなり、意見の違いも出てくる。結果的に個人単位のアクターのパワーは弱まっていくになるだろう。
 
 
エピステミック・コミュニティは授業を聞いても少し理解できませんでした。
 
 
 
南太平洋の国々は特に自分のことと密接に関わっっているので、環境問題に熱心なのはよく理解できるのですが、アメリカと違いなぜヨーロッパの国々は環境問題にここまで熱心なのかなと思いました。
 
(6月22日)
NGOとODAについて、混同している人がいましたので、コメントしました。
・ODA(政府開発援助:Official Development Assistance)
→国民の税金より支出される。途上国に対する経済支援。
→有償資金協力(借款)と無償援助がある。先進国のそれぞれの国が行っているが、国家の戦略として政治的に利用されることも(まま)ある。
・NGO(非政府組織:Non-Governmental Organization)
→支援者たちが、それぞれのNGOの理念や活動に共感し、支援者たちの募金(会費制のように継続的な支援が求められる)により運営される。
1990年代には、ODAがさまざまな批判にさらされる中、いっそのこと、NGOにODAの一部を委ねて、NGOが民主的に(地元の人たちの手に渡るような)援助したほうがいいのではないかという議論がでました。
そのときに、1)ODAが、途上国の「開発独裁」をサポートするようなことにつながるのであれば、いっそのこと、NGOがODAの一部を使うことによって、本当に行き渡らせたい人たちの助けをしたほうがいいと考えるNGOがある一方で、2)政府のお金というのは、所詮、政府のお金であり、政府とは独立した立場から、政治色抜きに現地の人たちからの助けも得ながら、一緒に活動をしていったほうがいいのではないか、として、政府からの援助は断るというNGOもありました。
今はどのような形になっているのか、調べてみませんか。具体的なプロジェクトのケースを探して、実際の例をみてみるといいですよ。期末レポートにしてもいいですね。